2008年3月24日月曜日

my blueberry nights

昨夜、公開したばかりの映画「my blueberry nights」を観る。

ウォン・カーウァイが監督・脚本を手がけた作品は「いますぐ抱きしめたい」から「ブエノスアイレス」まではひととおり観ていたものの、「花様年華」「2046」「愛の神、エロス(ミケランジェロ・アントニオーニ/スティーヴン・ソダーバーグとのオムニバス)」と近作はまったく観ていなかったこともあり、彼の撮った作品をじっくりと鑑賞するのは実に久々の機会となった。

で、自分は彼の作品を全て観ているわけではないからはっきりとは言い難いのだが、観ててよく思うことの1つに、男性が撮った作品にしてはなんでこうも女性の心理や行動描写に対しての演出力が突出しているのだろう、ということがある。

必ずしもその作品や重要となる人物が毎回女性であったり、出てくる男性全てが中性的というわけではないのだが、彼の作品に出てくる男性の描かれ方の多くは女性のそれに対してどうにも淡白な印象が残ってしかたがない(まあこれは結局のところウォン・カーウァイが作品を通して描きたいことが、少年性や青年性ではないのだろうという結論に至るのだけれど)。

で、彼が作品の中で描く女性の心理描写やその行動性を窺っていると、その描きっぷりに"女性以上の女性らしさ"のようなものを感じてしまって、どうにもむず痒くなってしまうというか、「おそらくこの映画って女性が共感しやすいのだろうなあ」とか映画の本筋とは反ったことをあれこれ考え始めてしまうのである。

今作ではノラ・ジョーンズ演じるエリザベスの動向にフォーカスを当てているから当然といえば当然ではあるのだが、彼女のココロの機微の描かれ方の巧みさ・細かさに比べると、相手役のジュード・ロウ演じる青年ジェレミーの描かれ方は若干アバウトで都合合わせっぽさを少々感じてしまった。彼にしたって、エリザベスと会う前にもそれなりの幾多のストーリーがあり、彼女と会ってからも相当な逡巡があるにも関わらず、どこかその描き方に執着性を感じないというか淡白な気がしてならないのだ。

と、その点が極々個人的に気になったことを除けば、エリザベスが失恋旅の中で出会う人それぞれの"愛"の形とその行方も見どころが多かったし、それを演じるナタリー・ポートマンやレイチェル・ワイズ、デイヴィッド・ストラザーンの演技も確かなものですごく楽しめた(中でも、レイチェル・ワイズのクールさとデイヴィッド・ストラザーン演じる男の昼と夜の豹変っぷりといったら!!)

そして劇中で流れる音楽の使われ方も効果的だったと思うし、他の監督では観ることのできない映像の蒼さと紅さ、そしてフィルムの粗さ具合もどこか甘酸っぱいブルーベリー・パイのような世界観の演出に欠かせないものだったと思う。そしてタイムレスな感覚を覚えずにはいられないエリザベスとジェレミーの二人のラストシーンは、そのスクリーン一杯に映し出される美しさと綺麗さに息を呑むしかないのであった。



my blueberry nights公式サイト→http://www.blueberry-movie.com/

0 件のコメント: